2020年大河ドラマ「麒麟がくる」で話題の明智光秀。
2020年1月8日放送のNHK「歴史秘話ヒストリア」で光秀の謎に迫っていたので、その内容をまとめてみました。
【歴史秘話ヒストリア】明智光秀は医者だった!? 本能寺の変の原因
「歴史秘話ヒストリア」で明智光秀の最新研究が紹介されていて、内容が面白かったので記事にまとめてみました。
明智光秀が歴史の表舞台に出てくるのは信長に仕えた後からであり、出生~信長仕官前までの履歴は謎に包まれています。
「斉藤道三に仕えたがその息子・斎藤義龍に美濃を追われ、朝倉義景を頼って逃れた」説が有名ですが、これは江戸時代に創作された『明智軍記』などによるものでやや信憑性に欠けます。
しかし、近年光秀と同時代に書かれた史料が見付かり、その謎の前半生も次第に明らかになってきました。
今回放送の「歴史秘話ヒストリア」では、近年の研究結果からそれらの謎を解説しています。
光秀は武士兼医者だった!?
近年発見された初期の光秀に関する史料
『針薬方(しんやくほう)』・・・足利義昭に仕えた米田貞義(こめださだよし)が永禄9年(1566年)に書写した医術書。光秀が近江田中城で籠城した際、米田貞義に口伝したものとされる。近年熊本の旧家で発見された。
『遊行三十一祖京畿御修行記(ゆぎょうさんじゅういちそ・けいきごしゅぎょうき)』・・・遊行上人(時宗の総本山遊行寺の住職を指す)の31代目同念上人が天正6年(1578年)から同8年(1580年)までの間に東海・関西地方を遊行した時の状況を近侍者が記録したもの。原本は残っていないが、写本が現存している。
こちらが、上記の史料研究からわかった光秀の前半生です。
『遊行三十一祖京畿御修行記』に、「光秀が越前の朝倉義景を頼って称念寺門前に十年住んでいた」という記録が残っているので、光秀が30代の頃越前にいたのは間違いないようです。
番組では称念寺(現在の福井県坂井市)にもロケに行っており、称念寺住職が「(称念寺から少し歩いた辺りで)光秀は寺子屋を開いたのではないかという話が伝わっています。」と証言していました。
越前国を治めていた朝倉家は医術を取り入れることに大変熱心だったそうで、番組では一乗谷の医者の屋敷跡から出土した大量の医術や薬に関する道具、医術書が紹介されていました。
光秀の口伝書『針薬方』に「セヰソ酸、越前朝家の薬」の記述があることから、”セイソ酸”と呼ばれる朝倉家秘伝の金瘡(戦いでの傷)の薬を朝倉家の医師が光秀に伝えたということがわかります。
『針薬方』には、出産前・後の婦人用の薬の記述も残っており、光秀は外科だけでなく産婦人科の医術も施していたのではないかと考えられます。
義昭の家臣から義昭・信長の両属家臣へ
1565年(永禄8年)第13代室町将軍・足利義輝は三好三人衆によって殺害されてしまいます。
義輝の弟・足利義昭が近江から諸国の武士に自分を助けるよう呼びかけ、これに応じた光秀は足利義昭の居城の一つであった近江田中城に入りました。
田中城籠城の際に光秀は医師として(武士としても?)活躍し、その医術を教わった義昭の側近・米田貞義により、光秀の存在が義昭の耳に入ったと考えられます。
1568年(永禄11年)、光秀は田中城籠城の功績を認められ、義昭の家臣に取り立てられます。
三好三人衆ら反対勢力を押さえて上洛したい義昭のために、光秀は有力な戦国大名だった織田信長に目を付け、義昭と信長の仲介役に奔走しました。
そして信長の助けにより、永禄11年(1568年)義昭は無事15代室町将軍に就任します。
次第に光秀は義昭と信長両属の家臣として働くことになっていきます。
比叡山延暦寺焼き討ち 光秀もやる気マンマンだった!?
信長の残虐さを物語る所業の一つが「比叡山延暦寺の焼き討ち」ですが、実際信長に命令され手をかけたのは光秀です。
以前の「ヒストリア秘話」放送回では、光秀は比叡山焼き討ちに消極的だと放送していました。
私も今まで信長・光秀に関する本を読んでいて、「比叡山焼き討ちを諫めるが聞いてもらえるはずもなく、信長に厳しく叱責される光秀」というイメージをず~っと持っていました。
ところが近年の研究で、比叡山焼き打ち10日前の元亀2年(1571年)9月2日付けの雄琴の土豪・和田秀純宛の光秀書状に、
「仰木の事は、是非ともなでぎり(=皆殺し)に仕るべく候」
と、非協力的な仰木(現・大津市仰木町)の町民の皆殺しを命じており、比叡山焼き打ちの忠実な実行者だということが判明しました。
このことからも、光秀は信長の「必要とあれば手段を選ばずやり遂げる」という合理主義に共感していたと考えられます。
元亀4年(1573年)2月義昭が挙兵すると、光秀は信長側の家臣として、石山城、今堅田城の戦いに参戦します。
光秀が義昭を見限って信長を選んだ理由は、「家柄を重んじる足利将軍家より、身分に関わらず実力で登用してくれる信長に仕えた方が自分は出世できる」と考えたからだと思われます。
光秀の妹は信長の側室の一人
当時の側室など信長に仕えた女性たちは、公家や寺社からの様々な訴えを信長に取り次ぐ役目も務めていました。
ある時、信長は奈良の二大寺院である興福寺と東大寺の「戒和上(=宗教上の重要な役割)」を巡る争いの裁判を光秀に任せます。
その際、御ツマキ殿は「現在の状況を重んじよ」という信長の意向を伝えたので、光秀は元々戒和上を担っていた東大寺ではなく、130年前に権利が移っていた興福寺を勝ちとしました。
光秀は妹の存在もあって信長との緊密な関係を築き、出世街道を突き進みました。
本能寺の変が起こった原因
さて、光秀の最大の謎とされる本能寺の変に至った原因ですが、怨恨説、野望説、恐怖心説、理想相違説、将軍司令説、朝廷説、四国説、イエズス会説など色んな説がありますよね。
本能寺の変の理由”四国説”
信長に「土佐の長宗我部氏との仲介」を命じられた光秀は、この同盟のために家臣・斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせました。
しかし天正8年(1580年)に入ると、信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになってしまいました。
信長は長宗我部と同盟を結んだ時に「四国を全部支配していいよ」と言っていたのに気が変わって「三好康長に阿波を返せ」と要求したり、挙句の果てには四国攻めを決めてしまうんだからひどいですよね。
また、天正9年(1581年)8月に御ツマキ殿が病死したことも、本能寺の変の遠因ではないかといわれています。
「麒麟がくる」では、光秀の正室・煕子が妻木家の娘という設定になっているので、御ツマキ殿は「煕子の妹=光秀の義理の妹」という可能性が高そうですね。
そこにチャンスがあったから
日本の歴史学者・呉座勇一氏は、本能寺の変を起こした光秀の心理について「”チャンスがあったら掴まなければいけない”っていうのが光秀の人生哲学」と語っていて、私もその言葉に納得しました。
本能寺の変に関する色んな話を聞いていると、とにかく光秀は信長に対して溜まり溜まった不満や怨み、そして「もうこの人だめだ。(天下人としても上司としても人間としても)」っていう失望があったんだと思うんですよね。
そんな時、僅かな供回りを連れた信長・嫡男信忠父子のみが京都にいて、他の息子や武将たちはみんな遠征で近くにいないという絶好の機会に恵まれた・・・。
だから光秀は「討つなら今しかない」という思いに駆られ、後先考えずに行動を起こしちゃったんじゃないかな~と筆者は考えます。
光秀の末裔・明智憲三郎氏の著書もなかなか興味深かったです。
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終わりに
「歴史秘話ヒストリア」明智光秀の回のまとめはいかがでしたでしょうか?
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