京都 明智光秀の首塚
2020年の大河ドラマの主役
2020年の大河ドラマのタイトルは、「麒麟がくる」です。
麒麟は中国の伝説上の聖獣で、「王が仁のある政治を行う時に必ず現れる」と言われています。(日本ではキリンビールのロゴでお馴染みですよね。)
↑日本ではキリンビールのロゴでお馴染みですよね.
応仁の乱後の荒廃した世を立て直し、民を飢えや戦乱の苦しみから解放してくれるのは、誰なのか…。
そして、麒麟はいつ来るのか?
「麒麟がくる」では謎めいた明智光秀の前半生に光を当て、その生涯を中心に、戦国の英傑たちの運命の行く末を描くというストーリーだそうです。
明智光秀役を演じるのは、人気俳優の長谷川博己さん。
本能寺の変後、光秀の末路
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で主君・信長を討ち、天下を取った明智光秀。しかしその後山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、俗に「三日天下」(厳密には11日)といわれるようにあっという間に天下取りの座から転落してしまいました。
坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負った光秀は自害、家臣・溝尾茂朝が介錯をし、その首を近くの竹薮の溝に隠したといわれています。
光秀の首は発見した百姓により翌日、村井清三を通じて織田信孝(信長の三男)の元に届き、まずは本能寺でさらされました。
その後17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口に首と胴をつないでさらされた後、6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれたといわれています(『兼見卿記』より)。
光秀の首塚のある場所
明智光秀の首塚は2つ存在し、今から紹介する京都・東山以外にも亀岡の谷性寺にもあります。
一方、首が切り落とされた「胴」は光秀が斃れた「明智藪」近くに埋葬されたという伝承が残っており、現在は「明智藪」から小栗栖街道を1.5km北に進んだところに、「明智光秀胴塚」が建っています。
「首塚」はよく聞きますが、「胴塚」というのは珍しいですね。
光秀の首塚 参拝記
2019年5月5日、帰省先の姫路から東京に戻るついでに、夫と一日京都観光してきました。
京都府立陶板名画の庭、六角堂、本能寺と回り、本能寺の宝物殿で近くに光秀の首塚があることを知ったので、急遽行ってみることにしました。
所在地:京都市東山区三条通白川橋下る東側梅宮町474-23
アクセス:市バス「神宮道」下車徒歩約3分、地下鉄東西線「東山」下車徒歩約5分
私達は本能寺から地下鉄を乗り継ぎ、東西線東山駅から向かいました。
近くを流れる白川沿いを南下します。町家が連なり柳が揺れる白川の風景はとても情緒があり、いかにも京都らしいです。
白川の左側に道標があります。古そうなので歴史を感じますね。
光秀の塚の標識が見えたら、左に曲がります。ちなみに、直進250m先には知恩院もあります。
『太田牛一旧記』によると、光秀が小栗栖の田の上の細道を十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺され、これが最期と悟ると「自分の首を守護を表す毛氈鞍覆に包んで知恩院に届けてくれ」と遺言を残したそうです。知恩院が近くにあるのも偶然じゃなかったんですね。
首塚には「東梅宮」という名前が付けられていました。梅と聞くと菅原道真が思い浮かびますが、光秀も知的なイメージなので個人的にはしっくりきます。
首塚全体像。こぢんまりと路地裏に隠れるように存在し、歴史上の有名人を祀った場所にしてはひっそりとした印象です。
光秀の戒名「長存寺殿明窓玄智禅定門」と刻まれた墓碑です。明窓玄智(めいそうげんち)の意味は、「玄妙なる智(さとり)は、明るい心の窓に」とのこと。聡明な光秀にピッタリの戒名だと思います。
この戒名の墓碑は、明治36年(1903年)市川団蔵が明智光秀を演じるにあたって寄贈したと言われています。
弘化5年(1848年)に建てられた五輪塔が光秀の首塚の本体です。天正年間の公家の日記には、明智光秀の遺骸がこの辺りの地にて曝され、その後首塚を築き埋葬したと記されています。前の台には、明智家の家紋「桔梗紋」が彫られていますね。
首塚の敷地内には「光秀公」の扁額がかかった小さな祠、そして厨子の奥には明智光秀の木造が鎮座しています。普段は鍵がかかっているので格子越しに覗いてみてください。昔はここに光秀の遺品や遺骨も納められていましたが持ち帰ろうとした人が多く、現在はないそうです。
お賽銭の仕方の説明書きです。私達もささやかながら納めさせていただきました。
光秀の位牌と木像の説明の写真が貼ってありました。
光秀の木像のアップ。
この写真を見ると、光秀は現代に至るまで大事に祀られ、地域の方や子孫の崇敬の気持ちが伝わってきます。
首塚はもともと西小物座町(にしこものざちょう・東山区)にありましたが、光秀の子孫と名乗る明田理右衛門が五輪塔を自宅へ移し、供養したと言われています。そして、さらに明治時代に現在地の地に移されたそうです。
この首塚は、表通りに面している和菓子屋「餅寅」が江戸時代から代々管理しています。餅寅では、桔梗紋の焼き印が入った「光秀団子」が売られているそうです。
ここには、ベストセラーにもなった『本能寺の変 431年目の真実』の著者・明智憲三郎さんの記事が飾ってありました。「明智光秀の末裔が、本能寺の変の謎を検証する」と聞いただけでワクワクしますよね。私も興味深く読ませていただきました。
今は『完全版 本能寺の変 431年目の真実』が出ています。
違う出版社から『織田信長 435年目の真実』という本も出しています。
ちなみに明智憲三郎さんは、2ケ所ある光秀首塚説に対して、「過去の文献等を調べた結果、京都・東山の首塚の方が本物であるといえる」と結論づけています。
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私は信長ファンなので、信長ゆかりの地を色々訪れています。(※信長ファンですが、光秀については知れば知るほど魅力的な人物だということが伝わってくるので、不思議と嫌いにはなれません。)
信長ファンの方もそうでない方も楽しめる記事になっていますので、どうぞご覧ください。
終わりに
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