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【hide】長年のファンが魅力と愛を語る②(1995~1998)

2020 5/02

当記事は、「28年間hideを愛してやまないファンが、hideの魅力と愛を語る」企画第二弾である。

目次

hideが好きすぎて辛い とにかく愛しい②

hideを28年間愛するファンの使命

私は、1992年中学生の時にhideに恋をしてから、ずっと彼を愛し続けている。

当記事では、

「1992年にhideと出会って、hideが亡くなる1998年までの6年間”を一緒に過ごせた自分はとても幸せ者だ。」

その貴重な体験と思い出を独り占めするのはすごい罪ではないか」

と思う筆者が、hideとの思い出を振り返りながら、彼の魅力と溢れる愛を語りたいと思う。

今回は、1995年~1998年までを振り返る。

松本秀人は、X JAPANのギタリストとして活動時はHIDE、ソロ名義の時はhideと使い分けていた。

当記事では混乱を避けるため、”hide”表記で統一することをご了承いただきたい。

1995年 X JAPANの活動がメイン

前年ファーストソロツアーを成功させたhideだったが、「俺はあくまでも、X JAPANあってのhideだから」というスタンスを決して崩さなかった。

その発言からは、X JAPANを、そしてそれを牽引するYOSHIKIへの限りない愛と尊敬が感じられた。

HEY!HEY!HEY!のダウンタウンとの絡みが大好きでした。

X JAPANの音楽はもちろん、メンバーが一緒にいるのを見るのが大好きな私は、X JAPAN第一で活動するというhideの謙虚な心意気やX愛に感動したし、ますますX JAPANもソロ活動も応援したいと思うようになった。

1995年のX JAPANは、8月にシングル「Longing~跡切れたmelody~」リリース、12月にスペシャルシングル「Longing~切望の夜~」リリ-ス。

そして、11月からDAHLIA TOURが開始されたりと、hideにとってX JAPANの活動がメインの1年となった。

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個人的に思い出深いのは、12月24日行われた「阪神大震災チャリティコンサート “KOBE RETURNS”」@大阪城ホールに参戦したことです。

人生で2度目のX JAPANのライブに行けたことも嬉しかったし、「被災した小・中学校にピアノを寄贈する」という発表にも感動した。

ライブの最後に行われた寄贈式の様子。

当時私が住んでいた兵庫県の実家は被災地ではなかったが、連日報道される阪神大震災のニュースにとても心を痛めていた。

そんな時、X JAPANが自分たちにできる形でチャリティーをしたというのが嬉しくて、ファンとしてますます彼らを誇りに思ったのである。

1996年 2ndソロツアー hide solo tour 1996 -PSYENCE A GO GO-

ソロ活動再開

1996年のhideはソロ活動を再始動し、6月に5thシングル「MISERY」(花王「サクセス」のCMソングにタイアップ)、8月に6thシングル「Beauty & Stupid」をリリ-スした。

そして9月には2ndアルバム「PSYENCE」をリリースを出し、ファンにたくさんの新曲を届けてくれた。

『PHYENCE』は、当時hideが言っていた「サイボーグロック」や「コワイイ(怖い+カワイイ)」などの世界観が詰め込まれていて、ハードな曲だけどポップで聞きやすかったり、難解な四字熟語が出てくるけどクスッと笑える歌詞とか、hideならではのアイデアが詰まったオモチャ箱だと思った。

私は『PSYENCE』で、1stアルバム『HIDE YOUR FACE』とはまた違った、新たなhideの音楽の虜になってしまったのである。

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 「限界破裂」「BEAUTY & STUPID」「GOOD BYE」「POSE」「MISERY」が好きです。

そして9月には、2ndソロツアー “hide solo tour 1996 -PSYENCE A GO GO-” がスタート。

私は、9月17日の大阪城ホール公演に参戦し、やっとhideのソロライブを生で体感することができた。

X JAPANのライブとはまた違う、hide独特のテイストが感じられるPOPさ、また箱が小さいことでより身近に感じられるということで、私はhideのソロライブの魅力に憑りつかれるのである。

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今思えば、hideのソロライブでhide本人を見ることができたのは、これが最初で最後となってしまいましたが・・・。

ここで、10月20日に開催され代々木国立体育館の「MISARY」の様子をご紹介したいと思う。

曲の初めに落下傘が落とされる演出が、なんともユニークでhideらしい。

一見POPなサウンドで見過ごしてしまいそうになるが、「MISARY」は、痛みや苦しみを「全て受け止めるよ」と、リスナーを優しく癒してくれる曲である。

でも、決してしんみりした感じではなく、「ほら君の涙を食べちゃおう」と可愛らしく言ってしまうところがhideらしい。

私は初めて聴いた時から「MISEARY」が大好きだったが、後に「この曲はhideがファンである難病の少女との交流から出来た」と聞いて深い感銘を受けた。

hideと貴志真由子さんの温かいエピソードは、ファンの間では有名な話だろう。

また、hideは彼女との出会いをきっかけに、同年8月骨髄バンクにも登録している。

「MISARY」や真由子さんとの交流エピソードを聞くと、私はhideの優しさに触れ、胸が熱くなるのである。

hideのサインが届く

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一つ個人的な話をさせてください。

何のビデオだか忘れたが、hideの楽屋のオフショット映像でファンから「サインください。」というファンレターを受け取り、「書かなきゃ!!」と同封のハガキ(?)にサインを書き込むhideの姿が映し出されていた。

それを見た私は、自分もほしくなって「ビデオ見ました。私もください。」と、ダメ元でハガキを同封してファンレターを送った。

そしたら、なんとhideはサインをしてくれてハガキを返送してくれたのだ。

これが届いた時は、本当に嬉しかったし、あんなに人気者で多忙なのに、一人一人のファンに細やかに対応するhideの優しさに感動した。

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本当にhideちゃん大好き。好きで仕方がない。

これは、私の一番の家宝になった。

LEMONedレーベル設立

1996年、hideはZEPPET STOREの音楽に出合った事をきっかけにレコードレーベルLEMONed(レモネード)を設立した。

英俗語である「LEMON(不良品)」に過去形の「ed」を付けて、「不良品だった」という意味を込めた命名である。また同時に、大量生産されるこの時代で僅かな確率で生産された「不良品」が、似た者同士のアーティストの中で異彩を放ち、「僕たちもかつては不良品だった」と笑えるようにとhide自身語っている。

5月22日に、hideの好きな音楽を集めた『compilation cd LEMONed』がリリースされ、その中でhideも自身の曲「BACTERIA」と「限界破裂」を収録している。(どちらも『PSYENCE』にも収録)

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私は、この「限界破裂」がマイベスト3に入るくらい好きなので、紹介させてください。

「限界破裂」は、”病的な愛”をPOPに歌っていて、なおかつ”カッコイイ”という、私の好きな要素を織り込みまくった最高の曲だ。

※各曲のレビューについては、後に別ページで記事を書く予定

9月8日には、LOMONeD参加のアーティストを集めた「LEMONeD presents hide indian summer special」というイベントが千葉マリンスタジアムで開催された。

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この時、「自分が首都圏に住んでいれば行けたのに。」と悔しく思ったことは、いうまでもありません。

その「LEMONeD」活動の一環として、音楽以外にもファッションやグッズの販売店・美容院として展開したLEMONeD SHOP(以下:「レモネードショップ」と表記)もファンにとって一つの聖地になっている。

1996年に原宿の表参道にOPENし、当時は1階がグッズショップ、2階は美容院「SQUASH」という形態だった。

(hideは祖母が美容師、hide自身も美容師免許保持者で「バンドをやめたら美容師になるつもりだった」という逸話は有名)

2004年2月末日に閉店、2007年4月に同じ地で「LEMONeD SHOP TOKYO」として再開され、現在に至る。

「きてね☆」

DAHLIA TOUR FINAL

X JAPANの”DAHLIA TOUR 1995-1996”は、1995年11月26日~1996年3月30日終演予定だったが、途中YOSHIKIの怪我によって中止となり、結局1996年の年末2daysがツアーファイナルとなった。

ここでは、X JAPANのソロコーナー「hideの部屋」で「POSE」をパフォーマンスする姿をご紹介したい。

演出が刺激的でクセになるし、なんと言っても歌っているhideがカッコよすぎる!!

王道をゆくX JAPANライブの中で、hideの表現するアートは前衛的で異彩を放っていた。

まるで未来を予言するような世界観・・・2020年の今見ても全然古臭さを感じない。

これを見ると、hideが”未来からやってきた宇宙人”だと思っても、不思議ではないだろう。

そして、しっかりPATAも目立つように登場させているのが面白い。(笑)

自身のソロツアーで、フロントマンそしてボーカリストとしての経験を積んだhideは、自信に満ち溢れていて無敵だ。

PCYENCEツアーはアリーナ規模だったが、hideは東京ドームでしっかりその存在感を放っているし、その実力はドームクラスでもいけるレベルだと思っている。

1997年 X JAPAN解散

hideソロ活動

1997年のhideのソロ活動は、ライブビデオやコンピレーションアルバムのリリースがメインだった。

その中でも、目立ったものといえば、8月26日、hideプロデュースにオールナイトクラブイベント “hide presents MIX LEMONed JELLY”を開催したことだろうか。

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私は、これも地方に住んでいたため参加できませんでした。(涙)

音楽雑誌などの情報を読むと、「当時まだ真新しかったインターネットを駆使し、5ケ所のクラブを同時中継して楽しむというイベント」だと聞いて、hideの先見の明に驚いたものである。

X JAPAN解散

やはり、この年最大のニュースはhide個人ではなく、9月22日に発表されたX JAPANの解散だろう。(同時に、同年4月20日にTOSHIが脱退したことも発表された)

記者会見でhideは、「ワガママ三昧でやってまいりましたが、最後のワガママごめんなさい。」というコメントを残した。

その独特の言い回しがhideらしいな、と思った。

ーX JAPAN解散に対する当時の筆者の心境ー

私はX JAPANもhideソロも大好きだったし、どちらも器用に使い分け、それぞれの世界で活躍するhideを見るのが楽しみだった。

できることなら、X JAPANもhideソロも同時並行でもっともっと見ていきたかった。

今思えば、それは最高に贅沢な時間だったのだが・・・。

しかし、マスコミではYOSHIKIとTOSHIの不仲説、XJAPAN解散説が連日囁かれ、そんな不穏なニュースを聞かされるのはファンとしてとても悲しかった。

私たちファンが一番願うのは、メンバー一人一人の幸せである。

X JAPANが存続することで、メンバーが憎しみ合い、苦しい関係を続けるくらいなら、いっそのこと解散して楽になってほしいと思うようになった。

だから、”解散”と聞いた時も「仕方ないな。本人たちの思いを尊重しよう。」と、当時の高校生にしては、冷静な反応だったと記憶している。

THE LAST LIVE

X JAPANのファンクラブに入っていた私は、無事、THE LAST LIVEのチケットを取ることができた。

アリーナ席だったが、hide側の上手(かみて)側だったのは嬉しかった記憶がある。

この時は、頭ではわかっているはずなのに、LAST LIVEという実感があまり沸いてこなくて、特に泣いた記憶もない。

田舎在住のやっと大学生になった私が、X JAPANのライブに参戦できたのはまだ3回目だった。

X JAPANが解散する悲しみよりも、X JAPANの歴史的ライブを体験できた達成感、この場にいられた自分の幸運に感謝する気持ちの方が大きかった。

私は、「THE LAST SONG」が大好きで、このライブでの演奏は本当に感動的だと思う。

ただ、X JAPANの解散がなければ、この曲が生まれなかったと思うと、なんとも複雑な気持ちになるが・・・。

「X JAPAN解散決定後に、レコード会社やマネージメント側からの要望によりYOSHIKIが作曲した」という曰く付きの曲だが、そんな大人の事情を一切感じさせずに、この悲しい出来事を芸術に昇華させているYOSHIKIは天才だし、確執とか個人の感情は抜きにしてちゃんと歌えているTOSHIは本物のボーカリストだと思う。

どんなきっかけであろうと、私はこの「THE LAST SONG」という曲が大好きだ。

ただ、テーマがテーマだけに現在X JAPANのライブで演奏されることはなく、YOSHIKIのクラシックコンサートでしか聴けないのが残念。

4:03~の悲しく虚空を見つめながらギターを弾くhideが、本当に美しい。

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今思えば、「生のhideを見られる最後のライブ」という意味でも、本当に貴重なライブとなってしまいました・・・。

1998年 悲しみしかない一年

hide with Spread Beaver始動

大好きなX JAPANの解散に私がそこまでショックを感じなかったのは、「私にはhideソロがあるし、これからはhideのソロを応援すればいいんだ」という逃げ道があったのも大きかったと思う。

事実、hideはラストライブ翌日の1998年1月1日に朝日新聞の紙面で「hide with Spread Beaver」始動を宣言している。

1月28日にシングル「ROCKET DIVE」を発売し、hideにしては珍しい全面的に前向きな曲で、落ち込んでいたファンの背中を押そうとしてくれたのがわかる。

その時、私はhideの優しさがわかったし、すぐにシングルを出してくれたのが単純に嬉しかった。

でも、後になって当時の映像を見ると、死のカウントダウンが始まっているように思えて、今はもう当時のワクワクした気持ちで見られないでいる。

1998年という年が悲しすぎて、この年のhideの活動を見ようとすると、死のフィルターがかかってしまうのだ。

hideの死

5月2日は、友達のメールでhideの訃報を知った。

とても信じられなくて、すぐにTVを付けたらニュースでも報道されていて、それが事実だということを知った。

私は突然の「最愛の人の死」という現実が受け入れられなくて、慟哭に近い泣き方をしたのを覚えている。

人の死でこんなに泣いたのは初めてだった。

 

いてもたってもいられなくなって、とにかくファンとして、5月6日の通夜と5月7日の築地本願寺の告別式に参加しなければと思った。

大学進学で上京した友達を頼って泊めてもらい、その友達の友達という初対面のhideファンの人を紹介してもらって、一緒に長い献花の列を並んだ。

すごく暑い日だったのを覚えている。


↑柱の後ろに葬儀に駆け付けたTAIJIの姿があることに注目。

hideの死後すぐにリリースされた「ピンクスパイダー」と「ever free」はもちろん買ったが、あまりにタイムリーすぎて、この2曲を聴くと、どうしても”イコールhideの死”が思い出され、平常心では聴けない。

20年以上経った今でもその思いは変わらなくて、hide名義の時の曲のように、曲だけに集中して聴くことができないのだ。

だから、後年hideファンになった人が「ピンクスパイダーが一番好きです。」と言ってるのを聴くと、とても羨ましく思う。

事実、今これを書いている今も、当時の気持ちを思い出して泣いてしまった。

 

hideが亡くなる前日に収録されたという「ロケットパンチ」も、録画していたので何回も見た。

番組中で演奏されている「ピンクスパイダー」のhideは、神懸かっていて最高にカッコイイ。

まさか、その翌日に亡くなるなんて、誰が思うだろうか。

「こんなにすごくカッコよくて、私を夢中にさせたまま、急にいなくなっちゃうなんてズルイよ・・・。」

こうしてhideは、「私の人生で一生変わらないであろう最愛の人」として心に刻まれてしまった。

その後の活動

hideが亡くなった後も、同年7月23日zilchの1stアルバム『3・2・1』が発売。

10月21日には、シングル「HURRY GO ROUND」が発売されて、「ピンクスパイダー」や「ever free」リリース時に比べれば、多少落ち着いて聴けたと思う。

 

hide with Spread Beaverとしての1stツアー、hide with Spread Beaver appear!! ”1998 Tribal Ja,Zoo”は、hide亡き後も決行されることが発表された。

私はhideのファンクラブ「JETS」に入っていて、10月29日の大阪厚生年金会館のチケットが取れていたので参戦した。

hideを失った悲しみは、私たちファンよりも、今までhideと一緒に過ごしてきたSpread Beaverのメンバーの方が大きいだろう。

それなのに、私たちファンのために、hide不在の中ライブをやってくれて本当にすごいと思うし、彼らに対して感謝の気持ちしかない。

しかし、後ろのスクリーンにhideが映し出されると、「大好きな気持ち」と「本人不在という現実」を突きつけられて、ずっと泣いてしまうという悲しいライブになってしまった。

11月21日発売のアルバム『Ja,Zoo』も買ったが、「このアルバムはhideが監修できていないんだな」と考えてしまうのと、声を聞くと愛しくて「もうその歌声を聴けないんだ」と思うと悲しくなってしまって、『HIDE YOUR FACE』や『PSYENCE』みたいに聴きこめていない。

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次回予告

以上、1995~1998年のhideとの思い出を振り返りながらその魅力と愛を語らせていただいた。

当記事を通して、当時を知るファンは懐かしく思い出してもらったり、新しいファンの人には生前のhideがどんな活動をして、ファンはどんな感動を与えられたかを知っていただければ幸いである。

1998年のhideの死については、一人のファンとして当時の気持ちを正直に書かせてもらった。

もし、これを読んで悲しい気持ちや不快な気持ちになった読者がいれば、ご容赦いただきたい。

次回は、1999年~2020年現在までのhideファンとしての心境を語ろうと思っている。

一人のhideファンがどのようにして彼の死を受け入れ、心の整理を付けていったのか、一緒に見ていただければ幸いである。

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この記事を書いた人

1979年生まれ。
兵庫県出身、現在は東京で夫と2人暮らし。
執筆家。

音楽、旅行、歴史、東京での生活をこよなく愛す。
特技は、合気道二段と仏語検定準2級。
宅建合格者だが宝の持ち腐れ。
趣味は、ライブとカラオケ。
極度の寒がりのため、冬だけ南国に住むのが夢。

ライター実績:旅行サイト「トリップパートナー」、松本市行政サイト「はぐまつ」。

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