当記事では、アケメネス朝初の都、イランのパサルダガエをご紹介します。
イラン パサルダガエ(Pasardagae) キュロス2世の墓
パサルダガエの歴史
パサルダガエはペルセポリスの北東87キロメートルに位置します。
紀元前546年、アケメネス朝のキュロス2世によって建設が開始されたペルシャ帝国初の首都となりました。
キュロス2世の死により都市計画は頓挫してしまいますが、都がシューシュに移転するまで栄えました。
パサルガダエの考古遺跡の広さは1.6k㎡に渡り、2004年には世界遺産に登録されました。
代表的な遺跡はキュロス2世の墓と伝えられる建造物です。
その他には丘の近くにそびえるタレ・タフト要塞と2つの王室の庭園があります。
園はイランで最初の四分法に基づいて建設されたペルシャ式庭園で、庭園部分はパサルガダエ考古遺跡とは別に、2011年世界遺産に登録されました。
キュロス2世とは
キュロス2世の生年は不明ですが、死去は紀元前529年と言われています。
アケメネス朝の建国者で、在位期間は紀元前550年頃 – 紀元前529年。
一代にして大国を築いたことからキュロス大王とも呼ばれます。
メディア王国の属国アンシャンの王家の人間で、キュロス1世は彼の祖父にあたります。
父はアンシャンの王・カンビュセス1世、母・マンダネはメディアのアステュアゲス王の娘。
キュロス2世はアンシャン王に即位後、母の祖国であるメディアを滅ぼしました。
一万人からなる精鋭部隊「不死隊」を率いてリュディア王国を陥落、エラム、新バビロニア帝国も倒し、西アジア世界を包み込む大帝国の支配者となり、アケメネス朝を開きました。
バビロニアを倒したキュロスは、「諸王の王」を名乗り、帝国に強制的に移住させられていた諸民族を解放しました。
『旧約聖書』では、キュロス2世がバビロン捕囚のユダヤ人に帰還を、さらにエルサレム神殿の再建を許したことから、彼をメシア(救世主)と讃えています。
イラン人からはペルシャの建国者とみなされ、近代では1971年パラヴィー朝のモハンマド・レザー・パフラヴィー国王が従来のヒジュラ歴から、キュロス2世がメディアを滅ぼしてアケメネス朝を起こした紀元前550年をキュロス紀元と変更しました。(試行は1976年)
モハンマド・レザー・パフラヴィー国王
1979年にイラン革命がおこりパフラヴィー朝の王制が廃止されると、キュロス紀元も廃止されました。
キュロス2世の墓なのか、ソロモン王の母の墓なのか
一般的にキュロス2世のものと伝えられている墓ですが・・・
「キュロス2世のものと伝えられている墓」、もしくは「ソロモン王の母の墓」と呼ばれていて、初めて聞いた時はどういうこと!?って混乱しました。
イスラムによるイラン征服時代、アラブ人の軍隊はパサルガダエの遺跡を破壊する計画を持っていました。
当時の墓守は墓が壊されないよう、「パサルガダエはキュロス2世を奉じて作られたのではなく、ソロモン王の母を尊重して作られた」とアラブ人の軍隊たちに伝えたそうです。
彼らがその言い伝えを信じたことによって、この墓は破壊を免れました。
その結果墓碑はコーランの韻文に取ってかわられ、キュロス2世の墓だけでなくソロモン王の母の墓ともいわれるようになったそうです。
パサルダガエ体験レポ
2023年11月1日、朝イスファハーンのホテルをバスで出発。
昼過ぎにパサルダガエでランチ休憩。
パサルダガエの遺跡に到着したのは14時前でした。
バスを降りると、周囲360度を山々に囲まれた草原にポツンとピラミッド型の遺跡らしき建造物が見えます。
ダッシュで駆け寄り、より近いアングルで撮影しました。
しかしガイドさんは、「観光用のトロリーバスに乗って」というではありませんか。
言われた通りバスに乗ると、北東1㎞ちょっとぐらい走ったところで、バスが停まりました。
バスから降りて向かったのは、王の私用の宮殿跡。
宮殿の柱の8本という数は、ゾロアスター教の天使の数だそうです。
右端の角の柱に大きな穴が空いているのが気になりました。
そんな推測をして、会ってるかどうかガイドさんに尋ねると・・・。
日本の建築でいうほぞ穴の部分なんだそう。
たくさんの円柱が並べられているのを見て、この辺りの遺跡はまだ発掘途中なのかな?と感じました。
少し先に見えた謁見の間も行ってみました。
あまり時間もなかったので、写真を撮るのがせいいっぱい。
再びトロリーバスに乗り、本命であるキュロス2世の墓に向かいます。
後ろからぐるっと回って・・・
やっと正面から見ることができた!!
6段あるピラミッド状の階段の上に、高さ11mの家型の石室が乗ります。
こうした形状の墓は今までになく、おそらくキュロス二世が征服したリディアやバビロニアの影響だと考えられています。
建てられた当時は金の棺や数々の装飾品なども一緒に埋葬され、天井に遺体が収められていたのではないかと考えられています。
現在は残っていないため、ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロス大王によって持ち去られたか、もしくは盗掘されたのではないかなど諸説あります。
石室入口右横にある彫られたような落書きが気になって、思わず撮影。
ガイドさんに見せて質問したのに返事を忘れちゃいました。(汗)
感想
高校時代世界史は習っていたのでアケメネス朝ペルシアとかアレクサンドロス大王は知っていましたが、キュロス2世は名前を聞いたことすらありませんでした。
パサルダガエ キュロス2世の墓 概要
所在地:Ostan-e Fars,Shiraz
営業時間・定休日・入場料は変動がありますので、直接施設にお問い合わせください。
終わりに
パサルダガエはペルセポリスから車で1時間の距離にあるので、歴史的好きな方は是非お立ち寄りください。